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知っているつもりの錯覚

僕らは知っていると錯覚している

さあ、無知の知を始めよう

 

僕らは多くの物事を「知っているつもり」で暮らしています。実は多くのことを知りません。

こんな事いきなり言われてもピンと来ないかもしれませんが、そのことをチェックする簡単な方法があります。それは、「説明」してみることです。

 

 

試験をしてみましょう

 

皆さんトイレって知ってますよね?

今、胸の中に感じた「トイレについて自分の知っている感覚」を覚えておいてください。

 

はい、突然ですが、皆さんが使っているトイレ。レバーをひねったり手をかざすと水が流れると思いますが、どういう仕組みでそれが成り立っているのか、簡単に説明してみて下さい。はい、どうぞ・・・

 

改めて聞きます。皆さんはトイレについて知っていますか?

 

 

「説明してみる」が無知の知のきっかけになる

 

人は多くのモノを知っているつもりですし、実際に知ってはいます。ただ、その仕組みを説明できるものを本当に少ないです。これはトイレに限らずあらゆることに言えます。研究者のような人でさえ、自分が使っている装置や、他分野の研究については実はちゃんとわかってないことがほとんどです。

なぜでしょうか?

 

「なぜ」を突き詰めていくと、どんどん複雑になる

 

実は物事の多くは「なぜ」をひたすら突き詰めると、どんどん複雑になることが多いです。例えばトイレが流れる仕組みを説明するために、まずトイレの中身の構造について知ります。さらにその仕組みで欲しい機能が得られる理由を物理を勉強します。そうすると何でそんな物理が働くのか勉強します・・・この辺からどんどん難しくなってきます。ほかにも石を調べると、より細かい石や砂が見えて、それを見ると・・・とどんどん複雑になります。(数学のフラクタルみたい)

 

 

だけど、「なぜ」を何回か問うことはすごく重要

 

確かに、無限になぜを問い続けると答えがわからないところに行き着き途方に暮れてしまいます。だけど、ちょっと考えたり、調べたり、人に聴いたりしたらわかるところまでの「なぜ」を問うことはすごく重要です。なぜなら、今目の前の「なぜ」にこたえることが次現れるものの「なぜ」の共通解になることが結構あるからです。そして多くの人はこのちょっとの「なぜ」を放置しています。なので、ちょっとの「なぜ」を日々追及する人は他の人が見えないものが徐々に見えるようになります。そして、物事の裏側を知ることは、それ自体が実は面白いです。

 

ちょっとの「なぜ」にこたえよう

最近はいろんな本やネット上にちょっとの「なぜ」に対する答えがたくさんあります。ちょっとの「なぜ」を見つけてそれをちょっとの努力でいいから解決していく、そんな習慣がすごく力になる日がいつか来ると思います。